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退 屈 な 人 へ 第24回定期演奏会より 2001.6.9
コンサートに行った。昨年に続き小澤征爾音楽塾のオペラだ。小澤征爾は日本が世界に誇る指揮者であり、ウイーン歌劇場の音楽監督就任が決まっている話題の人である。昨年のフィガロのことはこのコーナーでも触れた。
彼へのあこがれは、小澤が若い頃書いた「ぼくの音楽武者修行」を読んでからだ。スクーターに乗りヨーロッパ各地で音楽の武者修行をした、というお話である。
私が小澤のことを知ったのは高校の頃であろうか。といっても私の周りにある音楽といえば、テレビの歌謡番組か雑貨店が商品を乗せて売り歩く車のスピーカーから流れる、これまた歌謡曲ぐらいである。いわゆるクラシックの音楽に触れることは、ほとんど皆無に近かった。それでもたまには、NHK教育テレビのクラシック番組にチャンネルを合わせたこともあった。でも、それは特上の睡眠薬のようで、最後まで起きて見た記憶はない。
しばらくすると民放テレビで「オーケストラがやって来た」の番組を放映し始め、密かなブームとなった。山本直純が司会を担当するクラシックを中心とした音楽番組だ。それがきっかけでクラシック音楽に興味を持つようになった。
ヒゲの直純が指揮棒を片手に”大きいことはいいことだ、森永エールチョコレート”のコマーシャルは今でもよく覚えている。その直純が無免許運転で捕まったことが発覚し、番組を降板させられ、高嶋忠雄に変わった。
丁度その頃、小澤=新日フィルの「新世界」を放映した。ウインドの定期でも取り上げたことのあるドボルジャックの「新世界」だ。例の「家路」で有名な「交響曲第9番」である。30分の番組であったから2回に分けて放映された。若い小澤のエネルギッシュな姿に感動した。実は第10回の定期で取り上げた「新世界」は、この時の演奏を音楽のスタイル、フレージング、テンポ、棒の振り方に至るまで、徹底的にモニターしたものだった。
もう1曲ある。第12回で演奏したカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」もそうである。これは小澤=ベルリンフィルのレーザーディスクからである。変拍子が多く曲の途中でめまぐるしくテンポが変わる難曲を、何とか振れたのも実は小澤のおかげである。
昨年のフィガロはそんな熱烈な期待を持って望んだのであったが、何か満たされなかった。小澤の巧みさ、旨さがだけが強烈に全面に出てくる。もちろん独唱・重唱も世界のスターたちであるから当然ずば抜けてうまい。オーケストラも各首席は日本や海外のトッププロが顔を連ねているから、演奏レベルは非常に高い。でも、私には小澤だけが強烈に映り、どうしてもモーツアルトの姿が見えてこなかった。小澤のアンサンブルのまとめ方、演奏技術の高さしか見えないのである。もちろん演奏終了後は華やかなカーテンコールが続き、会場は割れんばかりの拍手の渦に包まれるのだが・・・。
満たされぬまま車で会場を後にした。期待と、初めてのオペラとの出会いで忘れていたお腹の虫が騒ぎ始めた。長年つき合っているので、その虫もよくわきまえている。会場ではすこぶるおとなしく、会場を出るやいなや騒ぎ始める、まさに虫のいい奴なのだ。
同伴者も同様で空腹を訴えている。話はすぐにまとまりラーメンを喰いに行くことになった。腹が減っているときのラーメン屋はどこもすこぶる美味そうに見える。国道19号沿いの並んで営業している3軒のラーメン屋を何度も行き来して、熟慮の末、豚骨ラーメン店に決定した。雑誌などでも紹介されるほどの有名な店らしい。10時を過ぎているのに行列ができている。しばらくその行列の後について順番を待った。
先を争って椅子に座り、迷わず大盛りを注文した。ネギもたくさん入っていてチャーシューも大きい。どんぶりは洗面器のように大きい。
しかし、食欲とは裏腹に、まさかの食べ残しである。いつもならゆとりで喰える大盛りラーメンが喰えない(歳のせいでは決してない)。驚きと同時に胃袋はいっぱいになったが、心までは満たされなかった。これもフィガロの後遺症か。
そして、今年の4月、小澤のオペラ第2弾を聞きに再び芸文の大ホールに足を運んだ。今回は同じくモーツアルトの「コジ・ファン・トゥッテ」。ハードなスケジュールの調整と金策に奔走し、やっとの思いで会場に着いた。
今回のコンサートマスターは斉藤門下ではなく、N響の堀正文である。(あるすじから聞いた話によると、小澤自身が堀正文に直接頼んだらしい)フィガロの経験から、やや不安があったものの、熱烈なファンであることに変わりない。やはり大きな期待を持って望んだ。
ところが今回の小澤は違った。オケや合唱・ソリストたちが楽に演奏しているように見えた。小澤がぐいぐい引っ張る部分が少なかった。他の部分で何が変わったのか私にはわからなかったが、小澤の巧みさより、先回見えてこなかったモーツアルトが見えてきた。努力家の彼のことである、きっと1年かけて猛勉強したのであろう。
これも、あるところから聞いた話である。コンサートの本番中、レチタティーボにさしかかった時、当然のごとく暗譜で振っていた小澤が、明らかに大きく振り間違えたのである。見ていた私は気づかなかったが、独唱者もオケもかなり動揺したそうである。本番後彼は全員の前で自分のミスを認め謝罪した、と言うのだ。
押しも押されもしない人気・実力を兼ね合わせた世界のトップスターである小澤が、本番後、演奏者を前に謝罪した、というのである。その謙虚さに脱帽すると同時に、音楽や演奏に対する真摯な姿に感動した。当然その場に居合わせた演奏者から、彼に対して大きな賞賛の拍手が送られた。世界の小澤征爾、健在なり。
もう一つ、某一流音楽大学のウインドアンサンブルの演奏を聴いた。2・30年も前から名前だけは聞いていたが生の演奏を聴いたことがなかった。これも大きな期待を持ってコンサートに望んだ。何せ、開演30分も前から入館して良い席をキープしたぐらいだから。
他の聴衆も期待が大きかったのであろう、演奏者が入場してくると自然に拍手が起こった。コンマスはひときわ大きな拍手で迎えられた。チューナーを使って音程を合わせているのが気になったが、チューニング音はさすがにぴったりと合っている。やはり一流は違う、と感心した。
日本のバンドであるがアメリカ人の指揮者が登場して音楽が始まった。音楽の世界も国際色豊かである。アメリカはウインドアンサンブルが盛んで、我々のお手本となっているところも多分にあり、いわゆる本場である。
棒がうまい、とは思わなかったがバンドは、音程やバランスのとりかたが非常によく訓練されている。1曲ごとにチューニングするのもうなずける。日々の練習で音程とバランスに注意を払っているのがよくわかる。
ところが、どの曲を聴いても、音程とバランスが良いだけである。もちろん音楽を専門に学ぶ学生諸君であるから演奏上のテクニックは最上級である。各楽器の音符がきちんとならんでいる。でも、ただそれだけなのである。
音程を合わせバランスを整え、技術だけを見せたいのなら人間でなくてもできる。人の息づかい、感じる心、人間らしさを忘れた時間がむなしく流れていった。耐えられなくなった同伴者に急かされるまま、前半の終了とともに会場を後にした。 歌を忘れたカナリヤとは言うが、技術に走り、音楽を忘れた演奏は人の心を動かすことはできない。我々と同じように会場を後にした仲間が多かったことが、せめてもの救いであった。 桐田正章 |